渋川問屋
明治・大正時代からの大店の広間で、昔ながらの郷土料理をいただく。
「鰊の山椒漬」「こづゆ」など、会津の郷土料理や渋川問屋のオリジナル「紅鮭の押し寿司」などが並ぶ、「祭り御膳・鶴」(2,000円)。鰊や貝柱など乾物を中心に扱っていた大店の往時を偲ばせるメニューだ。「祭り御膳・亀」(3,000円)には、塩川牛のステーキが付く。
蔵座敷より中庭をのぞむ。本館の入口を開けると昔懐かしい土間がある。土間の左手が洋風れすとらん「開化亭」。右手は、昔帳場があったという「大漁の間」。その奥が蔵座敷となっており、現在はどちらも観光客や宿泊客に食事を提供する部屋となっている。
大小様々な部屋は、障子や襖で仕切られた和風建築だが、置いてある調度品は和風・洋風・中華風まで様々で、独特の雰囲気を醸しだしている。
本館の1階には、往時の隆盛を偲ばせる古い看板が掲げてある。建物も看板も渋川商店の歴史と共に生きてきた。入口の土間には、今でも会津で商いを営んでいた人々の気配が残っている。
磨きこまれた廊下に、打ち水の音に
大店の心意気を聴く。
渋川問屋には「格」がある。
何回も泊まりたい、店内を見てみたいと願いながら、一度も暖簾をくぐることができなかったのは、明治時代からの大店が持つ「格」に気圧されたからかもしれない。しかし、実際に暖簾をくぐってみて、思っていたよりも親しみやすい店だと思った。洗練されてはいるが、決して驕ってはいない。それもまた「格」の証だと感じた。
囲炉裏がある「大漁の間」で、「鰊の山椒漬」「棒たら煮」「こづゆ」など、会津の郷土料理に、会津塩川町で飼育された「会津塩川牛」のカットステーキが付いた「祭り御膳・亀」をいただいた。
「鰊の山椒漬」も「棒たら煮」も会津のスタンダードな味わいだと、会津出身のカメラマンが言う。素朴というより質素とすらいえる料理かもしれない。しかし、どれも手間をかけた味わいであることが感じられ、充分に美味しかった。素材が持つ滋味が身体中に染みわたっていくような気がした。
考えてみれば、会津の郷土料理は鰊もたらも、こづゆに使われている貝柱も、山国である会津に暮らす人々の知恵から生まれた保存食だ。鰊にもたらにも貝柱にも、自然の素材が持つ滋養が凝縮されて詰まっているのかもしれない。
明治から昭和にかけて、海産物を扱う大店だった渋川問屋。塵ひとつない床は、黒光りする程磨き込まれ、食事中何回か庭に打ち水をする音を聞いた。客を迎えるため、心地良い空間を常に維持し続ける。その行為に大店の心意気を見たような気がした。
光と影を内包して、
かつての大店は静かに佇む。
ぎしぎしと音を立てる本館の階段を昇り、2階に上がる。中庭を取り囲むようにめぐらされた回廊に出た瞬間、さんさんと降り注ぐ光の明るさに声を上げてしまった。中庭の緑の向こうに見える別館の屋根が光を受けて光り、その向こうに鯨の背中を思わせる流線型の屋根が見えた。それが別館の屋根だと、案内してくれた女性が教えてくれた。
離れには「憂国の間」と名付けられた部屋がある。現在の社長の叔父にあたる渋川善助が少年時代を過ごした部屋だ。
幼少期から「神童」と呼ばれるほど優秀だった善助は、本来ならば渋川問屋の4代目を継ぐべき人物だったが、東京で学問の道に進むことを選んだ。その後善助は2.26事件に連座し、事件後民間人でただ一人処刑された。「憂国の間」の前を通ったとき、沈鬱な表情で、分厚い書籍を読みふける善助少年の姿を見たような気がした。
白い障子に映る木々の影がゆらゆらと揺れている。黒く磨き込まれた廊下の片隅でも、光と戯れるようにやわらかな影が踊っている。
ここには、光だけでなく影もある、と思った。
隆盛を誇った渋川問屋だが、善助の事件は郷里の家族も暗い影を投げかけたはずだ。
創業明治初年。最盛期には渋川家の人間だけでなく、50余人の使用人がこの屋敷に暮らしていたという。長い歴史の中には、様々な人間の思惑が入り乱れ、数々の事件もあったことだろう。
渋川問屋の歴史は光と影に彩られている。その全てを内包して、渋川問屋は、今、ここにある。
廊下の片隅に踊る光と影のように。
渋川問屋
会津若松市七日町3-28
TEL(0242)28-4000
営業時間/AM11:30~PM9:00
定休日/無休
食事の時間帯は応相談。
洋風れすとらん「開化亭」では、コーヒーやビールなど喫茶もできる。