旧滝沢本陣
西軍が侵攻してきた際に残された刀傷が、いまも生々しくいたるところに残っている。
障子戸には、たくさんの弾痕が残されており、戦争のすごさを物語っている。
昔は農家であった旧滝沢本陣。
民家で使用されていた、さまざまな生活用具が展示されている。
総茅葺き屋根の入母屋造り。
現在は、国の指定重要文化財として残されている。
2003〜2004冬【第八巻】新撰組と白虎隊の足跡 02
旧滝沢本陣
いまも戊辰戦争の弾痕や刀傷が残る。
会津若松市一箕町滝沢122
TEL/0242-22-8525
■営業時間/AM8:00〜PM6:00
■定休日/無休(都合により休業あり)
■入館料/おとな300円、高校生250円、中学生150円、小学生100円
■駐車場/35台
当時の戦争跡が残るのは、旧滝沢本陣ここだけ
滝沢峠が開通した江戸時代。
会津藩主・松平容保が、参勤交代のときや藩祖公を祀る猪苗代・土津神社参拝などのときに、旅支度を調えるための休憩所となった場所である。
また、各地から藩主たちが訪れる際にも、立ち寄った場所でもある。
しかし、何よりも旧滝沢本陣を語るうえで欠かせないエピソードがある。
いよいよ会津が西軍に侵攻され、戊辰戦争が始まった慶応4年8月22日。
その日の旧滝沢本陣は、いつもと違った状況にあった。
白虎隊出陣の地であり、新撰組進駐の地となったのである。
戊辰戦争が勃発すると、旧滝沢本陣は大本営となり、藩主・松平容保が、会津城下に攻め入る西軍を戸の口原でくい止めようと、悲愴な決意で白虎隊を集結させ、出陣を命じた日。
この日は、土方歳三と斎藤一率いる新撰組が、会津藩の守衛として活躍した日でもあった。
藩主の座っていた御座之間、武士たちが座っていた御次之間には、今も当時の砲弾の跡や刀傷が残されてあり、戦争の攻防の様子を物語っている。
ちなみに、当時の戦争による砲弾や刀傷が残っている建物は、ここだけである。あとはすべて、そのときに焼失してしまったのだそうだ。
延宝6年に建てられた、東北地方最古の民家
旧滝沢本陣は、延宝6年(1678年)につくられた茅葺き屋根の入母屋づくりの民家。現在は、東北地方最古民家として、国の重要文化財として保存されている。
御座之間の左右は、障子戸になっており、外光からうっすらと光が差し込む。障子戸を開けると、遠州流庭園や夫婦松を見渡すことができる。
また、御次之間、座敷、なんど、おめえ、湯殿などがあり、当時の人々の暮らしに使われていた囲炉裏や土間があり、農具、食器が展示されている。
参勤交代の際に、藩主が愛用したという品々や、400年にわたる古文書が陳列されている。